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連載

追想 バテレンの世紀 連載82

貿易を支えた南海日本人町
渡辺 京二

2013年1月号

 慶長九(一六〇四)年から寛永一二(一六三五)年まで、三二年間に発給された朱印状は三五六通で、渡航先を見ると、今日のヴェトナムに当る交趾・東京・安南・順化・占城が併せて一三〇通、それにシャム五六通、カンボジア四四通、インドシナ方面を漠然と指す西洋一八通を加えると、二四八通がインドシナ向けであることが注目される。あとのまとまった渡航先はフィリピンと台湾で、前者が五四通、後者は三六通となる。

 朱印船は銀資本を豊富に携えていたので、各地で有利な取り引きを行なうことができた。もちろん、生糸・鹿皮・蘇木等を輸入する一方、武具・工芸品等も輸出したが、輸出の主力はあくまで銀であって、これは当時日本が世界有数の銀産出国だったからこそである。

 しかし、朱印船がインドシナにおいて優位を確保できたのは、各地に日本人町が形成されていて、現地の事情をよく知った日本人が市場を支配すべく努めたおかげだった。朱印船がインドシナへ集中したのは、そもそもは中国船との出会い貿易で生糸を入手しようとしたからだが、東京・交趾などは品質のすぐれた生糸の産地であり、その港町に住みつい・・・