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連載

美の艶話 17

蝋燭が照らす成熟した恋
齊藤貴子

2017年5月号

 約束など何もない。キスはおろか、手を握ったこともなければ、腕を絡めて歩いたこともない。それでも、互いに見交わす一瞬の視線に躰ごと貫かれて、何かが始まってしまうことは確かにある。
 薄闇の中、そっと人知れず音もなく訪れるその瞬間。何も気づかぬ振りでやり過ごすにはあまりに惜しいそんな夜を、実に意外な場面設定で、この上なくリアルに描いた知られざる「恋」の名画—。それが今回紹介するこの一枚、十八世紀イギリスの画家ジョゼフ・ライト・オブ・ダービーの《空気ポンプの実験》にほかならない。
 知られざる、とはいっても、専門的見地から正確を期して表現すれば、この絵は近代イギリス美術史における屈指の名作。少なくとも、イギリス絵画研究の泰斗として名を馳せた二十世紀の美術史家エリス・ウォーターハウスは、「非常に独創的なイギリス絵画の傑作」と、最大の賛辞を贈っている。
 ただしこれは、それまで絵画の主題たりえなかった題材に果敢に挑んだという意味での評価であって、画題の「実験」という言葉が示す通り、本作は一義的には十八世紀の科学を扱ったもの。実際描かれているのは、真空状・・・