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連載

美の艶話 第35話

誘惑と官能の「小道具」
齊藤 貴子

2018年11月号

J・W・ウォーターハウス作《人魚》
ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ所蔵


めぐり合いはいつも突然。どんな人かもよく知らないまま、その声や姿が忘れられなくなって、これが世にいう「ひと目惚れ」かと後から気づいたところで、大抵はどうにもならない。何も起こらないし、何も変わらない。
 それでも、偶然に手繰り寄せられるように何度か顔を合わせるうち、二人の間に流れる空気が、ふと一変する時がある。ほんの些細な、他愛もないきっかけで、妙に心が騒めき出すあの瞬間。つと恋に囚われゆく刹那―。それを文学という言語芸術で可能な限り視覚的に表現し、小説という散文でもって詩的かつ絵画的に表象すれば、おそらく夏目漱石の『三四郎』の次のような一節になるのだろう。
「一寸御覧なさい」と美禰子が小さな声で云う。三四郎は及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪で香水の匂がする。
 画はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴が、ぐるりと腰を廻って、向う側に尾だけ出ている。女は長い髪を櫛で梳きながら、・・・