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社会・文化

越後の傑物「佐野藤三郎」の千里眼

日本・中国の農業に遺した大功績

2023年11月号

 今でこそコメどころの新潟平野だが、その歴史は思いのほか浅い。昭和の初めまで、収穫時期が遅く乾燥が不十分で「鳥またぎ米」と呼ばれるほど粗悪なコメしかつくれない地域が多かった。県名が示す通り低湿地の「潟」がいくつも広がっていたからだ。
 新潟平野の中央に浮かぶ島のような弥彦山(六百三十四メートル)の山頂から眺めると、蛇行する信濃川の勢いを弱めるため、歴代の為政者が築いた堤防や開削した分水路をいくつも確認できる。とりわけ江戸時代から構想され、ようやく一九二二年に通水した大河津分水路は新潟市の手前で日本海に放水する人工河川で、広大な遊水池を美田に変えた。さらに、三一年に新潟県農事試験場で、後にコシヒカリにつながる農林一号が開発され、収量と食味に優れた品種が普及していく。
 それでもなお、新潟市の中央部に当たる亀田郷(約一万ヘクタール)は、信濃川、阿賀野川、小阿賀野川に囲まれ、「地図にない湖」と呼ばれるほど水はけが悪く、戦後になっても船で移動しながらの農作業だった。記録映像「芦沼」には、深田、泥田とも呼ばれた湿田での過酷な作業が映されている。胸まで泥沼に漬かって泳ぐようにし・・・

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