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連載

本に遇う 連載132

「虜囚の辱」を受けて
河谷史夫

2010年12月号

 新聞記者駆け出しで警察回りをしていたころだから、もう四十年近くも昔のことになる。吉村昭の『背中の勲章』を読んで、いたく衝撃を受けたことであった。
 吉村昭は何度か芥川賞候補になりながら、なぜか賞運つたなく、そのうち奥さんの津村節子に芥川賞が行ってしまった。
 文壇という舞台では、何か賞を受けないと肩身が狭いらしい。無頼を気取っても、太宰治が芥川賞欲しさに佐藤春夫へ嘆願書を送った話は有名だ。漱石や鴎外に文学賞受賞歴はない。賞と文学的価値の間には関連はあるまい。いつの間にか消息不明の受賞者のいる一方で、芥川賞を外され続けた吉村昭の精進ぶりと一作一作の完成度を味わうにつけその感を深くする。明快な主題、緻密な取材、そして正確な文章という点において、吉村昭は傑出している。
 わたしは、吉村昭の声を一度だけ聞いたことがある。何か事件が起きると新聞は「識者」の談話を載せる。何のことだったか談話取材を命ぜられ、吉村昭へ電話をかけた。かくかくしかじかと趣旨を述べ、さてご意見を、と促したとたん、一言「私は電話で意見を述べることはしません」と言い返され切られてしまった。{br・・・