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連載

追想 バテレンの世紀 連載64

サン・フェリーぺ事件の影響と秀吉の死
渡辺 京二

2011年7月号

 サン・フェリーペ事件は、イエズス会とフランシスコ会の間に、消えることのない不和の種を播いた。フランシスコ会側では、在京のイエズス会士あるいはポルトガル人が、スペイン人は海賊で日本の国を奪おうとしていると、秀吉に吹きこんだと主張した。
 というのは、この時期、日本司教区の司教として赴任したペドロ・マルティンス(イエズス会士)が、通訳ロドリゲスを伴って、伏見城に秀吉を訪うていたからである。会見は一五九六年一一月一六日に行われた。日本に司教が置かれたのは、司祭に叙任されるのに、いちいち司教のいるマカオへ渡らねばならぬ不便さを解消するためだった。
 だが、フランシスコ会の主張は、曖昧な伝聞にもとづいているばかりでなく、増田が現地へ出発したのが、マルティンスらの到着以前であることからしても根拠が薄弱である。
 モルガの『フィリピン諸島誌』(一六〇九年刊)には、サン・フェリーペ号の舵手フランシスコ・デ・ランダが増田に地図を見せて、ペルーやメキシコなどがスペイン領であることを示したところ、増田がどうやって手に入れたかと問うので、「まず修道士たちが入り、宗教を説き、そし・・・