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連載

皇室の風97

「男だねえ」
岩井克己

2016年9月号

 男は、その農家に客人として招じ入れられ、庭に面した畳敷きの茶の間の座卓を前に胡坐をかいて座った。農家の主人と語らう後ろ姿が縁側のガラス戸を通し間近に見えた。
 奥の台所では農家の主婦ら家人がいそいそとリンゴの皮をむく姿も見える。主婦がリンゴ、漬物、湯飲み茶わんを盆で運んできて差し出すと、男は時折、手をのばして口に運びながら主人に問いかけ相槌を打った。
 みんな普段着。外で待つ関係者も作業着に長靴履き。まるで農協の指導員が来て作柄を尋ねているかのような自然体だった。
 平成二年八月二十二日。前年に即位した新天皇の那須御用邸滞在中の「農家ご視察」を初めて取材して、目の前の光景に「この人は紛れもなく天皇なのだ」と総毛立つような衝撃を受けた。「時代は変わったのだ」と。
 昭和天皇の晩年を駆け出しの皇室担当記者として取材したが、なぜか「原風景」のように忘れられない光景がある。
 昭和六十一年十月十一日、山梨国体で原宿駅宮廷ホームからお召し列車に同乗して国鉄中央本線を甲府駅まで随行した時のことだ。
 最後尾に連結された供奉員車両に乗り込・・・