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社会・文化

卒寿のバリトン歌手は今も舞台に

芸術歌曲の開拓者「川村英司」のプロ魂

2021年5月号

 三度目の緊急事態宣言が東京に出されようという春の宵、ステージ背後の湾岸スカイラインに無人の晴海五輪選手村が不気味な影を落とす東京・豊洲シビックセンターホールは、三百席の八割ほどが埋まっている。「札幌から来たいと仰る方を二十名程、お断りしました。昨年五月に卒寿の誕生日に演奏会をする予定がコロナで一年延期になったので、ピアノの小林道夫さんも米寿になられまして」。ピアニストを伴い、しっかりした足取りで舞台に歩み出た燕尾服のバリトン歌手の言葉に、客席からの温かい拍手。
 一九三〇年五月に北海道・旭川に生まれた川村英司は、この時点で九十歳。旧制中学五年を卒業し音楽を学ぶべく上京するも、ピアノ科受験に失敗。旧武蔵工業大学で学びつつ声楽に転向する。女学校の音楽教師だった父親は、息子の歌手としての大成には疑問だったという。「歌のことは何も知らず、先生にもつかず、SPレコードのドイツ人歌手の様な声を出したいと、ただそれだけを真似したつもりで歌っていた」(川村)。
 武蔵野音楽大学を一九五四年に修了した川村は、東京藝術大学楽理科在学中から伴奏ピアノ名手として頭角を現し始めていた小林道・・・