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連載

現代史の言霊  第54話

十月の人質 -モスクワ劇場占拠事件(二〇〇二年)-
伊熊 幹雄

2022年10月号

《なぜ犯人たちは釈放されたのか》
アンナ・ポリトコフスカヤ(ロシア人記者)

 モスクワの劇場に最初の銃声が鳴り響いた時、観客は演出だと思った。上演中のミュージカル「ノルド・オスト」は、二つの世界大戦の時代が題材で、その瞬間も軍服姿の俳優たちが舞台にいたからだ。だが、俳優たちは大慌てで舞台袖に駆けていった。これは、台本にない本物の銃声だった。
 劇場に照明がつくと、場内の至る所に重武装した黒ずくめの男女が徘徊していた。チェチェン人武装勢力だった。彼らは観客に「動くな」と命令した。二〇〇二年十月二十三日午後九時過ぎ。モスクワ劇場占拠事件が始まった。
 劇場内には観客がざっと九百人いた。四十~五十人の犯人グループは、たちまち劇場を制圧した。リーダーは「皆さんの解放には、ロシア軍がチェチェンから撤退することが条件だ」と、目的を明らかにした。妊婦や子供、イスラム教徒など約二百人が解放された。

チェチェンからの軍撤退要求

 観客たちは、・・・

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