Book Reviewing Globe 502
避けられたはずの「ナチス台頭」
2026年3月号
ワイマール共和国は、初めから崩壊を運命づけられていたわけではない。1922年のヴァルター・ラテナウ外相の暗殺に対しては党派を超えたラテナウへの尊敬と同情、そして民主主義防衛のうねりが広がった。政権はこれを反民主主義勢力への反撃の機会としてもっと効果的に使えただろう。人々は23年以降のハイパーインフレの苦難によく耐えた。民主主義はまだ生命維持力を持っていた。
25年のパウル・ヒンデンブルクの大統領就任も極右旋回への決定的瞬間だったわけではない。30年の社会民主党(SPD)を中心とする大連立の瓦解は代議制民主主義の終焉を告げることになったが、連立を組んだ諸政党がもう少し妥協すれば瓦解は避けられたはずだ。
32年5月、ヒンデンブルクは側近の反動分子の圧力に屈し、ハインリッヒ・ブリューニング首相を更迭したが、これも回避できたかもしれない。この結果、誕生したフランツ・パーペン首相が32年7月のプロイセン・クーデターを企む。パーペンはプロイセンの国家弁務官に就き、行政権をパーペン内閣の国防相に移譲した。ワイマール共和国の最後の砦がここで崩れ去った。33年1月のヒトラー内閣・・・
25年のパウル・ヒンデンブルクの大統領就任も極右旋回への決定的瞬間だったわけではない。30年の社会民主党(SPD)を中心とする大連立の瓦解は代議制民主主義の終焉を告げることになったが、連立を組んだ諸政党がもう少し妥協すれば瓦解は避けられたはずだ。
32年5月、ヒンデンブルクは側近の反動分子の圧力に屈し、ハインリッヒ・ブリューニング首相を更迭したが、これも回避できたかもしれない。この結果、誕生したフランツ・パーペン首相が32年7月のプロイセン・クーデターを企む。パーペンはプロイセンの国家弁務官に就き、行政権をパーペン内閣の国防相に移譲した。ワイマール共和国の最後の砦がここで崩れ去った。33年1月のヒトラー内閣・・・









