三万人のための情報誌 選択出版

書店では手に入らない、月刊総合情報誌会員だけが読める月間総合情報誌

社会・文化

日本人の愚かな 「TOEIC信仰」

世界では誰も知らない「国際標準」

2011年4月号公開

 大手銀行が全行員にTOEIC八百点を求めると打ち出せば、新聞が一面で大きく報じる時代だ。実際、有名企業が軒並み採用や昇進の基準にしているため、企業社会ではTOEICが英語力の事実上の標準になってしまっている。政府も二〇〇三年に打ち出した文部科学省の「英語が使える日本人」構想で、英語教員には七百三十点ぐらいは必要だとTOEICを持ち出す始末だ。
 英語学習者の間でも、数字で英語能力の優劣がわかるかのようなスコア、ほぼ毎月実施という気軽さ、個人受験なら五千円台という割安感、コンビニでも申し込める利便性といった要因が奏功して、大人気だ。受験者数も延べ百六十万人を超え、主宰団体である国際ビジネスコミュニケーション協会(経済産業省所管の財団法人)に入る受験料は年間六十億円台と、その年商は東証二部上場企業並みだ。
 ただ、このTOEIC信仰、実は「誤解」に支えられている面が大きい。その誤解にこそ、英語力に対する日本社会の本質的な「無関心さ」が表れており、日本の英語教育の最大の欠陥をなしている。

受験者の八割が日本人と韓国人


 例えば、TOEICは留学生向けの英語検定であるTOEFL同様、米国発祥のテストと勘違いしている向きも多いが、実は一九七〇年代に日本人有志が発案し、米国のテスト開発機関 Educational Testing Service(ETS)が開発・制作したものだ。今でも年間十六億円前後のライセンスフィーを毎年払っている。
 また、TOEICが運転免許試験のように直接英語能力を測定するテストと思われているが、これも誤解だ。TOEICのスコアは高いのに、実際に通用するレベルの英語を書けない、話せないという、いわゆる「稽古場大関」が輩出される所以だ。
 TOEIC受験者の大多数が受けている試験は、年に八回実施され、リスニングとリーディングの二科目に絞って各百問を計二時間内に択一で解く形式のテスト。スコアは、五点刻みの十~九百九十点で示される。
 主宰団体の国際ビジネスコミュニケーション協会はTOEICの特長として、①スコア評価:変わらない評価基準、②グローバルスタンダード:世界約九十カ国で実施、③コミュニケーション:英語能力の総合評価、の三つを挙げている。本当にそうだろうか。
 第一の「スコア評価:変わらない評価基準」とは、六百点の人が受験した場合、試験問題が変わっても受験生の構成が変わっても実力が伸びなければ常に六百点となるような統計処理を指す。そのために過去問がリサイクルされる関係で問題の公開を拒まざるを得ず、外部専門家による検証の道が閉ざされている。また、既出問題を研究して公開しようとすれば、受験資格の剥奪だのETSによる法的措置の可能性といった恫喝的文言の並ぶ文書を送りつけてやめさせるような真似をする。公益法人がである。いずれにしろ、統計処理により絶対評価らしき装いをこらしたところで、結局は個々人の点数を母集団のスケールに当てはめてランキングを決めている以上、受験者の成績がパーセンタイルによって他の受験者と比較され、順位付けされる「集団規準準拠テスト」であり、熟達度つまりどれだけ英語ができるかを直接測定する「目標基準準拠テスト」ではない。
 これもETSの公表資料にあるが、各回の試験には常に五十点の誤差があるので、例えば昇進の基準を七百三十点とした場合、実は六百八十~七百八十という幅を持った基準ということになる。このような不確定的な基準で人の一生を左右するのは不見識も甚だしい。
 次に、グローバルスタンダードと銘打っている点だが、ETSの報告書には受験者総数の六五%が日本人、一二%が韓国人と明記してある。日本と韓国で総受験者の八割近くを占めるような試験をもって「グローバルスタンダード」と言うのは不当表示というものだろう。世界に一歩出れば、TOEICの存在自体が全く認知されていない。TOEICは誰も知らない「グローバルスタンダード」なのだ。

まさに亡国の英語検定


 第三に、コミュニケーションないし英語能力の総合評価だという点については、コミュニケーション能力という複合的なものをリーディングとリスニングで捉えようとすることに無理があり、妥当性があるか疑わしいとする論文がJALT(全国語学教育学会)などで何本も発表されている。また会社を辞め、自宅に引きこもっていた人が連続二十回以上、満点を達成したことが一部で話題になったが、これなどは笑えないほど皮肉な話だ。本当にTOEICがコミュニケーション能力を測っているならありうべからざる話だ。
 そもそも、英語でのコミュニケーションのためには、単語ならびに文法知識のみならず、社会言語能力や、会話の段取り・メールの構成法といった実際的運用能力が必要であることは論を俟たない。ところがTOEICのための勉強はそこで繰り返し問われる単語と文法知識の習得でしかなく、TOEICでは最高点なのに英語が実用レベルからほど遠い人を多数生み出している。TOEIC信仰のせいで、英語でのコミュニケーションがどういうもので、こなすために何が必要かという根本問題に目がいかないのである。
 一方、無分別な昨今のTOEICブームの弊害は、受験者にとどまらず、公的資格になりつつある英語検定の制作を外国機関に丸投げし、しかも巨額のライセンス料を取られて平然としている不思議な公益法人の存在を許したことである。海外で制作された試験の実施代行業でしかなく、要するに公益に資するような実体のある業務がない。事実、小人閑居して不善をなすとはよく言ったもので、〇九年二月の週刊誌記事を皮切りに、英字紙など幾つかのメディアで国際ビジネスコミュニケーション協会の経営体質を疑問視する報道が相次ぎ、さらに昨年の七月には関連企業による一億円超の脱税まで報じられたことは、このあたりの問題を浮き彫りにしている。
 さすがに韓国では、海外留学熱の高まりもあって、コミュニケーション能力を効果的に測れる検定が必要との認識から、国立ソウル大学や韓国商工会議所などが協力して英語能力の国家検定制度を開始、脱TOEIC化に向かっている。中国でもかねてから、真のグローバルスタンダードである「ケンブリッジ英検」の協力をあおいで英語教育の実をあげている。これに対して、わが国では全国の大学もその四割で、スコアが六百点以上なら四単位認定するという具合にTOEICを基準にしている始末で、まさに英語教育の放棄ともいえる状態だ。TOEIC信仰のあおりで普通にコミュニケートするための英語力養成が等閑に付されているわけで、まさに亡国の英語検定と呼ぶべきシロモノだ。


掲載物の無断転載・複製を禁じます©選択出版