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不運の名選手たち31

荒井直樹(高校野球投手) 最後の夏に隠した「プライド」
中村計

2012年7月号公開

 先発オーダーを聞き、荒井直樹は、長袖のアンダーシャツをユニホームの袖の中に強引に押し込んだ。

 高校時代、日本大学藤沢高等学校のエース番号を背負っていた荒井は「今日は投げるだろう」と思った日は、夏場でも長袖を着ていた。ただし、その理由はおぼろげだ。

「なんでだったんだろう……。汗を拭きやすいとか、そういうことだったのかな。あの日の写真を見ていて、パッと思い出したんですよ。なんで長袖なんだろ、そうか、『野手の日は半袖』『投げる日は長袖』って決めてたんだ、って。それで、こうやって、一生懸命まくったことを思い出したんです」

 あの日―。
 一九八二年夏、全国高校野球選手権神奈川大会の二回戦、日大藤沢―寒川高校の試合でのことだ。両チームとも二回戦からの登場で、それが夏の初戦にあたっていた。

 投打の中心だった荒井は、投げない日は「四番・レフト」として打線を牽引した。だが重要な初戦のマウンドは当然、自分が任されるものだと信じていた。

「どっちが投げても勝てる相手でしたけど、正直、俺だろ、と」
 ところが、当時七十歳だった老監督の香椎瑞穂が先発投手として指名したのは、背番号「10」をつけた一学年下の左投手だった。

「今はプロレスラーみたいな体格ですけど、当時はひょろっとしてて、手足が異常に長くて。やっぱりその頃から、クシャクシャした投げ方をしていました。そんなに球も速くないし、『すごい!』という感じでもなかった。ただ、安定感はあった。今と同じですよ」

 その後輩の名前は、山本昌広といった。そう、日本プロ野球界の現役最年長プレーヤー、中日の山本昌である。不格好な投球フォームと、130キロちょっとの真っ直ぐが代名詞の球界を代表する技巧派左腕だ。

 荒井が高校三年生の頃、県内で権勢を振るっていたのは「Y校」こと、横浜商業だった。その年の選抜高校野球大会でも全国四強入りを果たしている。日大藤沢は春の県大会の準々決勝で、その横浜商と対戦。4―14で大敗した。

「私が先発して、マサ(山本昌)が二番手で投げて、最後に私がまた投げた。二人して、めった打ちにされたんです。だから、このままでは、夏は絶対にY校に勝てないと思った」
 雪辱を誓った荒井は、翌朝から八キロのロードワークを自分に課した。その際、山本昌にも声をかけた。山本昌が思い起こす。
「先輩が黙々と走ってるんで、僕もついていくしかなかった。でも、あれからなんですよ、力がつき始めたのは。あのとき荒井さんが走ろうって誘ってくれていなかったら、今の僕はいませんよ」

 最初の数キロは話しながら走っているのだが、互いにだんだん無口になり、最後は競争になるというのがいつものパターンだった。

 この早朝トレーニングでより成長したのは、本人の言葉通り、まだまだ未開発だった下級生の山本昌の方だった。練習試合でも、次第に、第一試合は山本昌、第二試合は荒井が先発するというケースが増えていった。それは指揮官が山本昌を「エース格」として認めつつある証拠だった。

 香椎は日本大学の監督時代に日本一も経験しており、ニューヨーク・ヤンキースの名将をもじって「東都のステンゲル」と呼ばれた名監督だった。荒井が話す。

「香椎監督は、お年でしたから、もうノックもやらなかった。話もほとんどしない方で、卒業するまでに『肩痛くないか』って二度ぐらい話しかけられただけだった。でも、監督はすでにマサの方が上だと見抜いていたんでしょうね」

 夏のオープニング投手に選ばれた山本昌は、その試合で完封勝ちを収め、監督の期待に応えた。だが続く三回戦で、荒井が先輩の意地を見せつけるかのように、ノーヒットノーランを達成する。

「負けたくないというのは、多少、あったでしょうね」
 今だからこそ、そう控え目に語るが、下級生にエースの座を奪われ何も感じない投手などいない。

 しかし、山本昌も負けじと、四回戦でも完封劇を披露。それでさらに火がついたのだろう、荒井は五回戦で、何と二試合連続となるノーヒットノーランをマークした。神奈川大会史上初の快挙だった。

 次戦が最大の山場だった。準々決勝の相手は宿敵、横浜商。順番からいくと先発は山本昌だった。いくら荒井が二試合連続でノーヒットノーランを記録しているとはいえ、山本昌もまだ一点も奪われていなかった。

 荒井は納得した様子で話す。
「マサの方が試合間隔も空いていましたし、そういう意味では、万全といえば万全だった」

 しかし山本昌は、その試合も好投したものの、2―3で惜敗。荒井は結局、一本もヒットを打たれないまま最後の夏を終えた。

 山本昌が振り返る。
「あのときは立てなくなるぐらい泣きました。荒井さんに悪くて……。相手は、走るきっかけになったY校でしたしね。投げたかったと思うんですよ」

 二試合連続ノーヒットノーランは、今もまだ破られていない神奈川大会記録である。だが、荒井はその記録に必要以上に触れられることに対しては抵抗を示す。

「あの後、自分が投手として大成していたらいいんですけど、そうではない。だから、あの記録のことをあんまり言われるの、恥ずかしいんですよ」
 山本昌は荒井が引退した後も、毎朝八キロのロードワークを欠かさなかった。そして高校卒業後、ドラフト五位で中日に入団。プロで通算二百十二(六月二十二日現在)勝を挙げ、今日に至っている。

 一方、荒井は高校卒業後は社会人野球のいすゞ自動車でプレーした。最初の三年で投手に見切りをつけ、その後は野手に転向し計十三年間、現役を続けた。社会人野球では、それだけでも十分成功に値する。現在は前橋育英高校の監督を務める。

 荒井は取材中「あのときはマサがエースでしたから」と当時から山本昌の実力を認めていたかのような発言をしていた。だが、頭でどう考えていたにせよ、深層心理においては真実ではない。それは、あの夏の初戦、長袖を着用していたことが証明している。

 それにしても、あのとき荒井はなぜ長袖を無理やり、袖に押し込んだのだろう。そんなことをしても、プレー中にすぐに元に戻ってしまうだろうに。

 荒井が本当に隠したかったもの。それは、十八歳の幼気なプライドだったのではないか。

「今思えば、当時、僕が監督だったとしても、マサを最初に持ってきたでしょうね。それにしても、まさかプロに入ってあんな大投手になるとは思っていませんでしたよ。嬉しいですけど」
 荒井は、そう言って白い歯を見せた。半袖のシャツから伸びた真っ黒な二の腕を、二度、三度と、さすりながら。


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