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連載

本に遇う 連載187

何より名づけが大事
河谷史夫

2015年7月号

 無名の「吾輩」がいちばん有名な猫の世界とは異なり、人間世界にあっては名前が大事である。

 一九七三年、信州生まれで『ウンココロ しあわせウンコ生活のススメ』とか『死にカタログ』といった書名の自著のある寄藤文平というグラフィックデザイナーがいるが、その名前には、大学教授(生物学)だった父親の「武を廃し、文をもって平和をなせ」との願いが込められているとある。

 明治の民権運動家中江兆民は、保安条例による東京からの退去処分の解けた一八八九年に男子を得て、「丑吉」と命名した。足軽上がりの当代高官のことごとくが末は大臣か大将かみたいな、大げさで偉そうな名前を息子に付けていた時代である。その本意を問われて、兆民は「真実の親の愛情というものである」と答えた。

 筑豊に盤踞して『追われゆく坑夫たち』や『天皇陛下萬歳』など比類なき記録文学作品を残した上野英信は、兆民に「哀切な親心」を見て、このように書いた。

「いい身分になれるのは万人に一人もありはしない。むしろ人の卑しむ人力車夫や酌婦に身を落とす可能性のほうが強い・・・