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連載

追想 バテレンの世紀 連載126

夢に終わった神学の移植
渡辺 京二

2016年9月号

 キリスト教の神と日本の神仏との違いで大切なことは、前者が世界普遍性として出現したことである。日本人はわが神仏が世界に通用するか否か、それまで考えたこともなかったし、また通用させようとも思わなかった。ところが宣教師たちはおのれの神を、人間である限り受け入れるべき世界普遍の神として提示したのである。
 前記したように、宣教師たちは文明の次元で比較する限り、日本をヨーロッパより劣ったものとは見なさなかった。しかしおのれが信じる神については絶対的優位を確信しており、この点でセカンド・コンタクトの特徴となる高次文明による低次文明の教化の立場を先取りしていたと言える。
 いったん神が民族神・地域神を脱して普遍性を獲得すると、それはおのずと世界への拡張を志向するものである。だがイエズス会士の宣教は、そのような自然で生易しいものではなかった。
 イグナティウスの思考の跡をたどると、彼はキリスト者たることが人間たることの第一条件で、従っていまだ蕃神・邪神を信じる諸民族をキリスト者たらしめるのは彼らを真の人間にすることであって、それこそ吃緊かつ最高の人類史的課題と考えていた・・・