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連載

美食文学逍遥9

落ち鮎が喚起する生と死
福田育弘

2017年9月号

 四季の景物を主人公たちの心情表現とし、さらに作品世界の象徴にまで高めた作家の最高峰は川端康成である。
 たとえば、京都を舞台に四季折々の草木や花々の織りなす移ろう風景のなかで、呉服商の美しい一人娘、年若い千重子の心の揺れ動きを描いた長編小説『古都』は、千重子が自宅の庭に春を感じる次のような描写から始まる。
「もみじの古木の幹に、すみれの花がひらいたのを、千重子は見つけた。『ああ、今年も咲いた』と、千重子は春のやさしさに出会った」
 印象的な出だしである。古木の幹のわずかな土に可憐に咲くすみれは春のやさしさであると同時に、若くて美しい千重子自身でもある。
 しかし、この町なかの狭い庭に枝を広げる大木のくぼみに咲くすみれは、一株ではない。「大きく曲がる少し下のあたり、幹に小さいくぼみが二つあるらしく、そのくぼみのそれぞれに、すみれが生えている」からだ。
「上のすみれと下のすみれとは、一尺ほど離れている。年ごろになった千重子は『上のすみれと下のすみれとは、会うことがあるのかしら。おたがいに知っているのかしら』と、思ってみたりする。すみれ花が・・・