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経済

三井物産の桎梏「ロシア事業」

「米国制裁」で高転びの瀬戸際

2022年3月号公開

 我が意を得たり―。三井物産の会長・安永竜夫は今ごろ、会心の笑みを浮かべているだろうか。総合商社の間では、こんな皮肉交じりの囁きが交わされる。
「物産が二十二年ぶりにトップ商社へ返り咲くとしたら、それはプーチン、バイデンによる仕組まれた“冷戦”のおかげだ」
 空前の資源バブルの中で、今年度のトップ商社争いは伊藤忠商事、三菱商事、三井物産の三つ巴のデッドヒートが続いている。第3四半期の連結純利益は三社とも六千億円台半ばでほぼ横一線。それが通期見通しでは三井物産が八千四百億円と、他の二社の八千二百億円より頭ひとつ抜け出しているのは、年度末の一段の資源高騰に由来する。
 原油価格は今や一バレル九十ドルを超える高原状態。LNG(液化天然ガス)に至っては、今年度分の出荷が終了しつつあった昨年十二月二十一日、欧州向けカーゴが百万BTU(英国熱量単位)当たり六十・七一ドルと過去最高の高値をつけた。安永が掲げたボルトオン投資、すなわち資源事業の強みを積み増す経営は、安永の社長時代は花開かなかったが、ようやく精華を放ち始めたのだ。「万年三位の社長」と奉られてきた汚名を返上するためにも、今年度のトップ商社争いに力が入る。
 背景にあるのはもちろん、ウクライナ情勢だ。米国政府と西側メディアはロシアの天然ガス供給を武器とした欧州への政治圧力の非を鳴らす。さらに「二月十六日、あるいは二十日」などと、ロシアのウクライナ侵攻のXデーを占い、盛んに危機感を煽ってきた。その結果が原油価格の高騰であり、利益を享受しているのは産油国の米国とロシアなのだ。余沢にあずかっているのが三井物産と言っていい。しかし……。
「トップ商社? そんなデッドヒート(無意味な競争)に現を抜かしていれば、物産は高転びに転ぶことになる」
 あるエネルギー関係者はこう言い放った。「嘘から出た実」の俗諺通りロシアの軍事侵攻で、三井物産はトップ商社を狙うどころか、屋台骨を揺るがされるのだ。

北極圏LNG事業が標的の可能性

 ノルドストリーム2―。昨年十一月、ドイツ政府はロシア産天然ガスをバルト海経由で欧州へ供給する新パイプラインの承認手続きを一時停止した。これを機に欧州向けLNGが一段と騰勢を強めたのは周知の通りだ。
 しかし、年明け後、ウクライナ情勢が緊迫化しても、天然ガスの供給は止まっていない。一部の西側メディアは、ロシアの軍事侵攻があれば、米国を中心に強力な経済制裁が発動され、その報復でロシアは供給停止すると観測するが、為にする主張だろう。
 ロシアにとって、天然ガスと原油は数少ない外貨獲得手段。これを外交や戦争の道具に使えば、国際的信認を失い、資源マーケットから弾き出されることを承知しているからだ。「冷戦時代から安定供給に努めてきた」というのが国営ガス会社、ガスプロムの自慢である。唯一の例外は〇六年、天然ガスの料金不払いや無断抜き取りを続けていたウクライナに対し、契約違反を理由に停止したことだ。
 以来、ウクライナとは緊張を孕んできたが、過去のロシアの軍事侵攻のあと、資源マーケットはどうなったか―。一四年三月のクリミア侵攻の際、原油価格は百ドルから五十ドル台へ下落した。〇八年八月のグルジア(現ジョージア)侵攻では、百三十ドルから四十ドル台へ暴落している。危機感から膨らんだ買いポジションは、有事と同時に弾け、市場は売り一色となったのだ。今回も同様の事態を招きかねず、通商政策からみる限り、米国、ロシアのいずれにとっても戦争は得策ではない。
 米国が危機感を煽るのは、中間選挙を控え、ロシアを悪者にして弱腰外交を糊塗する大統領ジョー・バイデンのパフォーマンス、一方、ロシアが軍事演習を続けるのは、米独仏を東欧安全保障のゲームに引きずり出すための大統領ウラジーミル・プーチンのブラフ、そう読むのが妥当だろう。事実、ウクライナ東部へのロシアの派兵に対し、米国の経済制裁は掛け声の果敢さに比べ及び腰だ。
 それでもなお、不安は募る。前出のエネルギー関係者は「戦争は理屈では割り切れない」と大規模有事を想定してこう指摘した。
「米国が経済制裁を本格化せざるを得なくなれば、ノルドストリーム2に続いて標的にされるのはアークティック2だろう」
「アークティック2」とは、ロシア第二位のガス大手、ノバテクが北極圏ギダン半島に建設している年産二千万トンの巨大LNG基地。二三年の稼働を目指す同プロジェクトに四千五百億円を出融資し、一〇%の権益を保有しているのが三井物産である。一九年六月、「G20大阪サミット」の日露首脳会談に合わせて行われた参画調印式は鳴り物入りだった。当時の首相・安倍晋三とプーチンが見守る中、安永は署名したのである。

世耕に乗せられた「筋悪案件」

 北方領土案件―。アーク2は当時からこう呼ばれた“いわく付き”のプロジェクトだ。北方領土返還に執念を燃やしていた安倍は、アーク2を日露経済協力の象徴と位置付け、とりわけ側近を気取る経済産業相・世耕弘成が三井物産へ盛んに参画を働き掛けていた。四千五百億円もの価値がある案件か分からないまま、三井物産は当時、「世耕大臣の功名心に乗せられた」と揶揄されていたのだ。
 なぜなら、アーク2の開発鉱区があるギダン半島は西シベリアの北の果て。氷に閉ざされ、アジア向けの北極海東回り航路は夏場の五カ月しか開通しない。しかも、ノバテクCEOのレオニード・ミケルソンの評価は定まっていなかった。アーク2に先行する北極圏LNGの第一弾「ヤマル」が欧州向けに飛ぶように売れ、大成功を収めたことから“風雲児”と呼ばれていたが、どこまで信用できるのか……。三井物産とともに参画を打診されていた三菱商事は降りている。
 ノバテクは、ガス最大手のガスプロム、石油最大手のロスネフチ、これら国営企業と違い、独立系の新興企業だ。飛躍したのは〇五年、プーチンのサンクトペテルブルク市副首相時代からの最側近、ゲンナジー・チムチェンコが二五%の大株主になってからである。当時のプーチンは欧州への天然ガス供給の拡大、それもLNG輸出を急いでおり、チムチェンコを通じてミケルソンに目を付けた。補助金と免税の優遇措置で開発されてきたのが北極圏LNGなのだ。
 三井物産はおそらく、プーチンサークルの新顔ミケルソンを“先物買い”しようとしたのだろう。アーク2への参画を決めたのは当時の社長・安永、三井物産モスクワ社長の目黒祐志、エネルギー第二本部長の野崎元靖の三人。揃って一九八三年入社の同期であり、その後、目黒も野崎も順調に常務へ昇格した。三井物産は伝統的にロシアビジネスに強く、その関連人材が多く出世する。
 例えば安永の前任社長・飯島彰己(現顧問)は、プーチンと“サシ”で会える唯一の日本人経営者と言われた。なるほど、サンクトペテルブルク国際経済フォーラムへ出席した際、一時間近く対話しているが、楽屋話はこうだ。
「プーチンのスケジュールが空いた。誰かいるか」
 モスクワ在住が長い目黒に、ロスネフチ社長のイーゴリ・セチンから電話があったという。チムチェンコと並ぶ側近の打診に目黒が機転を利かし、飯島を送り込んだことがたまたま“アポなし会談”と喧伝された。飯島とプーチンの間に属人的な紐帯があったわけではない。が、その飯島も前のめりだったアーク2への参画は、当時から懸念されていたリスクが顕在化する可能性が高い。

トップ商社“三つ巴”争いから脱落

「米国の経済制裁の狙いは、世界経済になるべく影響を与えずに、プーチンを打撃すること。その点、アーク2は恰好の案件だ」
 別のエネルギー関係者はこう指摘する。前述の通り、ノバテクはミケルソンとチムチェンコの会社である。最側近の会社の総額二兆円超のプロジェクトが制裁対象となれば、プーチンが受ける打撃は深刻だ。現在、佳境の工事は米国からの技術導入、西側からの資材調達ができなくなる。そのドル決済も禁止だ。一方、竣工していないので世界のLNG需給には何ら影響はない。
 二三年以降も棚晒しのまま稼働の見通しが立たなければ、三井物産は出融資額の減損を迫られるだろう。「いや、そんな事態にならない」という声もある。米国のロシア制裁法には「既得権条項」があり、同法成立以前に契約されたプロジェクトは適用除外が原則だからだ。しかし、ノルドストリーム2はすでに着工していたにもかかわらず、建設参加企業は制裁対象となった。ロシアの軍事侵攻が苛烈を極め、数千人単位の死者が出始めれば、既得権条項は無効になっても不思議はない。
 一八年のイラン制裁では、イラン産原油の全面禁輸が発動された。同様の措置がアーク2にも行われたとき、三井物産社長・堀健一はどうするか―。歴代の親ロシア社長の“しがらみ”を断って撤退できるだろうか。四千五百億円の出融資のうち、実は大半の七五%は経産省所管の石油天然ガス・金属鉱物資源機構が資金支援しており、三井物産の負担は一千二百億円程度にとどまる。それを全損するのだ。経産省のある幹部はつぶやいた。
「政府は認めても、おそらく自民党が納得しない」
 安倍、世耕はもちろん、ロシアフィクサーの政治家たちが一斉に反発する。何よりプーチンは怒髪天を衝く勢いで、三井物産との取引停止を命じるだろう。ロシアビジネスからの撤退を意味する以上、アーク2は三井物産の避けられない桎梏となる。来年度、三つ巴のトップ商社争いからいち早く脱落するのは三井物産に違いない。(敬称略)


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