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連載

本に遇う 第285話

歴史にもしがあれば
河谷 史夫

2023年9月号

 不覚にもコロナになった。国連事務総長が「地球沸騰」と形容した夏のさなか、わが体温が気温と競うように上がった。わたしが三八・七度、二日後に家内が三九度。狭いお屋敷に十日間、別れ別れで過ごした。治療薬はない。解熱剤だけで何とか抑え込み、二、三日して熱は下がったが、咳が後々まで残り、ウイルスが脳に入ったせいかモヤモヤが続いた。
 思い当たるふしがないではなかった。遠来の友あり、禁を破って東京駅地下の飲食店で会ったのである。発熱は二日後。友には異常なしだったというから厳密な感染経路は不明だ。ただ五類移行で緩みがあったのは間違いない。
 己の行為を未練がましく後悔しても仕方ない。歴史にもしはないという。覆水盆に返らずである。とはいえ最近読んでいた遅塚忠躬著『史学概論』にも引用されていた小林秀雄の「歴史とは、人類の巨大な恨みに他ならぬ」という言葉が熱を持った頭をよぎる。
 ついでに「これがどうならうと、あれがどうならうと、/そんなことはどうでもいいのだ」と、小林に愛人を取られた中原中也の嘆きを思い出した。詩人の嘆きは「どうでもいい」ようなものだけど、歴史への恨みは異・・・

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