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連載

追想 バテレンの世紀 連載53

島津の西九州支配
渡辺 京二

2010年8月号

 目を西九州へ移すと、ここでも重大な情勢の変化が起こっていた。竜造寺隆信が島原沖田畷の戦いで戦死し、有馬・木村のキリシタン領は長年の脅威から救われたのである。
 竜造寺氏の圧迫のもと、領国の三分の一を保つのみとなった有馬晴信は、ヴァリニャーノが日本を去った一五八二年の末、肥後の八代に渡って島津氏に救援を依頼した。島津は肥後国を舞台に竜造寺と争っており、いまや頼るべき相手は彼しかなかったのである。
 島津方は一五八四年三月、竜造寺隆信が大兵を催してまたもや有馬領を侵さんとするのを知って出兵を決定し、国主義久の弟家久に兵三千を授けて、四月島原へ渡らしめた。
 両軍が島原北方二キロの沖田畷で交戦したのは、一五八四年四月二四日(天正一二年三月二四日)のことである。竜造寺軍は三万、あるいは六万と伝えられるが、六万はいくら何でも誇大だろう。フロイスは一万二千と述べる。大村氏も出兵を強いられ、三百の兵を派して島原城を守った。対する島津・有馬連合軍は島津兵が三千、有馬晴信の手兵は千にすぎなかった。フロイスの数字を採るにせよ、竜造寺勢は三倍の兵力を擁したことになる。
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