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連載

本に遇う 第292話

生と死は受身形でも
河谷 史夫

2024年4月号

「言葉に出会った驚き」から詩人になったという吉野弘に「I was born」がある。
 夏の宵、父親と寺の境内を歩いていた少年は身重の女と行き違った。とたんに習い始めたばかりの英語の一節が頭に浮かび、興奮して「やっぱりI was born なんだね」と父に話しかける。「受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね」。
 父はしばらく無言のままで歩いたあと口を開き、蜉蝣の話をした。それに込められた「生き死にの悲しみ」に少年は切ない痛みを覚え、生まれることは悲しみにつながっていると知るのである。
 芥川龍之介の『河童』によれば、河童の子は出産前にこの世に出て来るかどうかの意向を尋ねられる。「僕は生れたくはありません」と返事をすると、産婆がしかるべく処置をしてくれて子は消えることができるのだという。
 人間界はそうはいかない。受身形で生まれ、死ぬのも、芥川のように自裁を選ぶ人は別だが大勢は受身形だ。能登の大地震で被災した人たち、頼みもしないのに生まれてきて親に虐殺された幼児、ガザやウクライナの惨死者、ロシアで独裁者に暗殺・・・