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社会・文化

「脳科学」という似非世界

実証なき「ファンタジー」に過ぎない

2011年8月号公開

 脳の働きや機能は、人類にとって今なお未知の領域である。しかし、自らの頭の中がどうなっているのか、誰しも知りたいところだ。その願望につけ込んでいるのが、「脳科学者」という肩書で世間を跋扈する連中である。彼らの説く「脳科学」は、マスコミや企業と共謀して作り出したフィクションだ。オカルトと言ってもいい。
 ヒトの「心」は脳が生み出す現象であることは明らかであるが、心が激しい感情に襲われるときや悲しみにくれるとき、あるいは強い憎しみにかられるときに、脳の中で何が起きているのか、実は誰一人として知らないのである。

面白おかしく垂れ流すマスコミ


 科学の世界で「真っ当」と考えられている脳の研究者たちは、テレビに出て蘊蓄を語ることもしないし、一般向けの「脳科学本」を執筆することもない。科学者は、市井の人々に語る言葉を持っていないのである。彼らは専門とするごく狭い研究領域の知識しか持たないので、「脳と心」や「脳と人生」について面白おかしく述べることはしない。
 普通の研究者が日々励んでいることは、実験動物を使った基礎研究であり、いかに多くの英語論文を書くかということに尽きる。売れ筋の書籍を書いたところで、アカデミックな世界では、業績とはみなされない。
 では、世間で脳科学者として知られる人たちは、いったい何なのか。彼らの語る脳や心の話は、裏付けのない「ファンタジー」に過ぎない。時には宗教じみたスピリチュアルの世界になる。それでもテレビの視聴者には好評だった。
 そもそも、脳について正しいことを伝えようとすれば、面白味のあることは皆無と言っていい。にもかかわらず、ジャーナリズムは「脳科学」の内容を検討することもなく、似非科学者たちの「学説」を何年にもわたり、面白おかしく垂れ流してきた。
 実際、ここ数年間における「脳科学」のもてはやされ方は異様だった。テレビのバラエティ番組にとどまらず、ニュースのコメンテーターにも自称「脳科学者」が登場した。書店には数々の「脳科学本」が平積みされ、よく売れた。
 このようなブームの火付け役は、川島隆太氏による「脳トレ」であったことは確かであろう。脳トレとは、ゲーム形式で簡単な算数の問題などを解くものだ。東北大学加齢医学研究所の川島氏は、脳トレによって一般の高齢者、認知症患者の認知機能障害が回復すると主張し、脳トレをテレビゲームとして商品化した日本公文教育研究会と任天堂は、多額の利益を得た。多くの人が、「脳トレ」という商品に、認知症治療効果を期待して、金銭を差し出したのだ。
 残念ながら、算数の問題を素早く回答する訓練を積むと、認知機能障害が回復する、という科学的事実はこの世に存在しない。似非である脳科学に対して、真っ当な科学者側からの発言は稀であるが、最近刊行された『精神科医が狂気をつくる』(岩波明著、新潮社刊)では、精神科医である著者の立場から、脳トレについての的確な批判が述べられている。
「脳トレは単なるドリルやゲームであり、それ以上のものではない。ドリルやゲームに治療効果を期待すること自体、意味のないことである」
 この脳トレ以前にも、マスコミは怪しげな脳科学を喜々として取り上げた前科がある。その一例が「ゲーム脳」だ。
 日本大学文理学部体育学科の森昭雄教授は「テレビゲームや携帯電話のメール入力が脳に悪影響を及ぼす」という珍説を唱えた。これはイメージとして直観的に受け入れられやすい説であったらしく、有力なマスコミ各社も科学的な裏付けを確認することなく、珍説に飛びついた。凶悪な少年犯罪とテレビゲームを安易に結びつけ、「ゲーム脳」の説くストーリーに乗っかったのだ。
 森氏の理論は脳波を指標として用いているが、基本的な部分に多くの誤りがあり、理論とも言えない。例えば森氏はα波を徐波と呼び異常脳波に含めているが、α波はもっとも一般的な「正常脳波」であることは医学の常識である。
 マスコミ同様、低レベルなのは行政当局だ。ゲーム脳に関しては一本の医学論文も執筆されていないにもかかわらず、文部科学省の「脳科学と教育」の研究班は、研究テーマの一つとしてこれを採用したのである。あきれた話だ。文科省には、似非科学を見破る能力さえなかったのである。

効能のないサプリや食品を助長


 いかがわしさの程度は異なるが、川島隆太氏の「脳トレ」も、茂木健一郎氏の「クオリア」や「アハ体験」も、実はゲーム脳と大差がない。茂木氏の述べていることは科学的な検証がなされておらず、ファンタジーに過ぎない。
 茂木氏はひらめきの瞬間に感じる体験内容を「アハ体験」と呼び、これにより脳が活性化すると主張。アハ体験をするためのゲームソフトも発売されている。しかしアハ体験とはどのようなものであるか再現可能な形で定義されていないし、脳が活性化することもデータとして示されていない。つまり茂木氏の説は気ままな思いつきの羅列に過ぎないのである。
 マスコミがこうした脳科学を受け入れたのは、話題作りや視聴率のためであったことは明らかだ。しかしさらに悪質なのは、似非科学を利用して必要もなければ効能もない食品やサプリを売りさばいている健康食品業界である。
 脳科学に乗っかった食事療法も、数多くマスコミで取り扱われている。だがほぼすべてが、根拠のない妄説である。クスリへの批判には遠慮ないマスコミも、サプリに対しては不思議と寛容である。
 鬱病からの回復が見られると「5HTPセロトニン」などの神経伝達物質セロトニン関連のサプリの摂取を勧める業者は数多い。これも科学的裏付けはゼロだ。
 鬱病は脳内セロトニンの欠乏が原因だとする「学説」は、確かに存在する。しかしこれは科学的実証がなされておらず、セロトニン投与による治療効果も証明されていない。にもかかわらず、ワラにもすがる思いの患者や家族は、高額のサプリに救いを求め、大枚をはたく。罪作りな話ではないか。
 鬱病や統合失調症が改善するといって、ビタミンの大量摂取を勧める業者や医者もいる。認知症に対しても、数多くのサプリメントが販売されている。しかしどのサプリの効果も、医学的に検証されているとは言い難い。つまりは、明らかな詐欺商法ということだ。
 許し難いのは、こうした犯罪紛いの商法を助長する著作物が、大手を含めた多くの出版社から刊行されている点である。健康を人質に商売に励む企業はもちろん、それをあおるマスコミも指弾されるべきだ。なにより、似非脳科学者たちを妄信する愚を繰り返さぬよう、国民の科学リテラシーを高めることこそ急務である。


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