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連載

本に遇う 連載216

語り伝えられたこと
河谷史夫

2017年12月号

 立冬を挟んで、黒部峡谷へ紅葉を見に行った。前日まで雨だったという空に雲一つなく、錦繡を満喫できたのは、わたしの日ごろの行いがよかったからに違いない。
 宇奈月からトロッコ電車で欅平まで上る。そこにある黒部川第三発電所は一九三六年に着工され、四〇年に完工したが、ダムを構築した上流の仙人谷との間に水路と軌道のトンネルを掘鑿していった難工事の詳細は、吉村昭の『高熱隧道』で有名である。
「紅葉が上流からくだってくると、亀裂のように食いこんだ小さな谷々の樹葉を素早い速度で染めていった」。トロッコ電車は欅平で終点である。吉村はさらに木製の箱車で密度の高い熱気と湯気の隧道を通って上がった。「岩盤ととりくむ技術者や労務者に異質な世界にすむ人間の姿」を見て心動き、十年がかりで小説を完成する。
 吉村は『戦艦武蔵』に続くこの『高熱隧道』で作風を確立し、記録文学者への道を行くのだが、「『高熱隧道』が記録ではなく関係者の記憶によって成り立っていることが、『戦艦武蔵』との基本的な相違である」と書いている。
『戦艦武蔵』には克明な記録があった。しかし『高熱隧道』は記録がな・・・