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連載

本に遇う 第316話

忘れがたい人と文章
河谷 史夫

2026年4月号

 〽梅は咲いたか
  桜はまだかいな
 この小唄をわたしは、太宰治の小説『ダス・ゲマイネ』で知った。外題がドイツ語で「月並み」とか「俗物性」を意味するのだとはまだ知らなかった。
「恋をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであつた」という書き出しに痺れて何度も読んだ。
 フランス抒情詩の講義を聞き終えた「私」は、抒情詩とは打って変わった無学な文句に、勝手な節をつけて口ずさみながら「恋の相手の代理」に見立てた「十七歳の、菊といふ小柄で利発さうな、眼のすずしい女の子」を眺めに甘酒屋へ行くのである。
 その文体に取り付かれて、かなりの間太宰病に罹っていた。古本屋で求めた全集は散逸して、今は第1巻と『ダス・ゲマイネ』収録の第2巻だけが残っている。
 開くと「ヴアイオリンよりヴアイオリンケエスを気にする」とか「君が自殺をしたなら、僕は、ああ僕へのいやがらせだな、とひそかに自惚れる」とか「君たちは芸術家の伝記だけを知つてゐて、芸術家の仕事をまるつきり知つてゐないやうな気がします」といった行に朱線が引かれてある。
 学校には出ず、鬱・・・

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