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連載

追想 バテレンの世紀 連載111

籠城を始めた一揆勢
渡辺京二

2015年6月号

 山田右衛門作の供述に従うと、談合の結果「原の城」に籠城ときまり、「一二月一日より村々飯米残らず古城へはこび入れ、その上口之津へこれある長門守蔵米五千石ほど取り入れ」た。長門守とは松倉勝家のことである。

 四郎は三日に城へはいった。四日五日に島原キリシタンはすべて入城、数日のうちに城の普請と小屋の設営を終った。九日には天草から二千七百人が到着、彼らが乗って来た舟、さらに大江の浜にあった舟を打ち壊し、「城の塀裏がこい」にした。城中に籠った人数は合計三万七千人である。

 以上の供述についてはいくつか問題がある。天草勢の到着を九日としているが、二日に大矢野島波多村へ偵察にやられた熊本藩の百姓は、前記したように大矢野・上津浦のキリシタンは一日までにすべて島原へ移ったと報告している。だが、これは右衛門作が正しいようだ。というのは例の並河太左衛門が、九日に富岡勢が大島子まで「押し出し」たところ、敵は前夜上津浦を「明け退」いたあとだったと記しているからだ。このとき、舟に乗り遅れ山林に隠れていた者百名余を捕えたという。

 また七日に天草・・・