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連載

本に遇う 連載196

「かのように」の前に
河谷史夫

2016年4月号

 温暖化と専門家は言うけれど、今年は寒さが骨身に堪えた。
 それが済んだら春が来るという奈良東大寺二月堂の修二会がことのほか待たれた。十一人の練行衆が本尊十一面観音の前で日ごろの罪障消滅を祈願する悔過の行法で、天平以来一千三百年、連綿と続く有難い行事の極みが三月十三日未明のお水取りの儀式である。
 観光好きの芭蕉に一句。
 水とりや氷の僧の沓の音
 句碑には「氷」が「籠り」とある。添削者がいたらしい。「籠り」のほうがいいじゃないかとの鑑賞もあって、五七五の道も限りない。俳聖の作品だろうと憚らず朱を入れるとは有難いことである。
 修二会は籠りの坊さんが大松明を振りかざして走り回る「達陀の妙法」が見せ物だが、芭蕉はどうやら内陣には入れず、離れた場所で、ただ坊さんたちの駆ける足音だけは耳にしたとみえる。
 その辺の水を適当に汲んでくるのではない。閼伽井屋の若狭井の水と決まっていて、何とその水は若狭国からはるばると流れて来て、十二日深更に井戸の下に達したものといわれる。福井県は小浜を十日前に発した水が、地底の水脈をたどり二月・・・