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台湾軍「スパイ報道」で大騒動

日経新聞「与太記事」の罪作り

2023年4月号公開

「台湾の退役軍人の九割が中国軍のスパイ」。二月二十八日付の『日本経済新聞』の朝刊記事で紹介された台湾軍関係者のものとされる証言が、台湾社会を大きく揺るがした。台湾政府や軍から激しい抗議を受けた日経は三月七日に「社としての見解ではない」とする釈明記事を掲載したが、事態は収まっていない。「台湾軍の忠誠問題」。それは台湾で最もタブー視されている論点だ。微妙な問題に触れてしまった報道が引き起こした混乱は、台湾社会の分断を露呈した。
 記事をきっかけに始まった与党関係者による軍批判と野党関係者による政府批判はその後も続いている。
 問題になった記事は、「迫真 台湾、知られざる素顔」という四回連載の一回目。「それでも中国が好きだ」との見出しで、台湾軍に潜む中国軍スパイ問題を取り上げた。台湾軍のルーツが一九四〇年代に共産党軍との内戦に敗れた中国国民党軍であり、今でも「外省人」と呼ばれる中国から渡ってきた移民が軍の主要ポストを占めている実態を紹介した。そのうえで、台湾出身の「蔡(英文総統)は軍を掌握できていない」と考察した。
 さらに、中国への情報漏洩事件が相次いでいることを紹介。「そんな軍が有事で中国と戦えるはずがない。軍幹部の九割ほどは退役後、中国に渡る。軍の情報提供を見返りに金稼ぎし、腐敗が常態化している」という軍関係者の匿名証言を載せた。
 この証言が大きな波紋を広げた。台湾各メディアはそろって「台湾の退役軍人の九割がスパイ?」などの見出しで日経記事を紹介した。

不可思議な「お知らせ」

 台湾の国防部(国防省)が三月一日、「事実無根」と反論声明を発表。総統府も二日「深い遺憾」を表明した。東京の台北駐日経済文化代表処(大使館に相当)は三日、「記事は確認と検証がされておらず、国軍の名誉を甚だしく傷つけた」と遺憾の意を表明する文書を日経新聞社に送った。邱国正国防部長(国防相)は、日本の対台湾窓口機関である日本台湾交流協会と日経新聞にそれぞれ抗議した。
 台湾の立法院(国会)でも問題化する。退役軍人担当の退除役官兵輔導委員会の馮世寬会長は報道を「出鱈目だ」と一蹴した。
 台北市中心部にある日経新聞台北支局前で三日、排泄物とみられる液体がまき散らされた。
 当初、抗議を黙殺した日経新聞だが、七日になって朝刊紙面でようやく「お知らせ」と題する短い声明文を掲載した。
「二月二十八日付『迫真 台湾、知られざる素顔1』の記事中のコメントは、取材対象者の見解や意見を紹介したものであり、日本経済新聞社としての見解を示したものではありません。混乱を招いたことは遺憾です。公平性に配慮した報道に努めて参ります」とした。
 新聞の記事内容に誤りがあった場合「お詫びと訂正」を掲載するのが一般的だが、「お知らせ」の形での釈明は異例だ。その内容も、自社の記事でありながら他人事のようで、言論機関としては極めて無責任な物言いに見える。
 台湾軍の最大の仮想敵は中国軍だ。その退役軍人の「九割が中国軍のスパイ」ということは常識的に考えればあり得ない。証言を検証せずにそのまま掲載した日経新聞に落ち度は確かにある。
 しかし、台湾側の反応は大きすぎる。台湾の大手紙記者は「外国メディアの報道内容が間違っていると主張するなら、まずは軍の実態を調査、説明し、民衆を安心させてから抗議することが筋なのに、何の調査もせず、『謝罪せよ』と日経新聞に繰り返して抗議しかできないことが、台湾社会の異様なところだ」と指摘する。
 台湾のメディアに報道されただけで、ここ数年で十件以上の台湾軍絡みのスパイ事件が摘発された。巻き込まれた軍人は数十人に及ぶ。
 スパイの比率としては世界各国の軍の中で断トツに高い。しかし、台湾メディアはスパイ事件の経緯は報道しても深掘りをせず「軍の忠誠」の問題に触れようとしない。
 台湾軍の中枢はいまだに、一九四九年に蒋介石と一緒に中国から渡ってきた中国国民党軍の子孫、外省人に牛耳られており、その多くは「台湾独立に反対し、台湾の将来は中国と統一すべきだ」と考えている。
 スパイ事件が相次ぐ背景には、中国による買収もある。だが、スパイになった軍人、元軍人たちの心の中に「台湾独立志向の民進党が嫌いだ。中国に親しみを感じる」という思いがあることも一因だ。彼らは中国軍の協力者となり、民進党政権を倒すことを悪いことと思っていない。
 そして、台湾の与党、民進党は軍に対する影響力がほとんどない。野党の中国国民党籍の立法委員(国会議員)や地方議員になった軍の退役将校は数多いが、民進党に入った元軍人は皆無に近い。
「軍の忠誠問題」について問題意識を持つ人は多くいるが、あえて口にしない。台湾有事の時に軍に守ってもらわなければならないからだ。
 軍や国民党関係者たちも忠誠問題の話題を極端に嫌う。
 今年六月、中国の広東省で創設された台湾の陸軍軍官学校(旧黄埔軍官学校)が創立九十九周年を迎える。中国当局は盛大な祝賀イベントを計画し、台湾の退役団体を通じて元軍人五百人を招待した。
 多くの退役軍人はイベントに出席する意向を示した。しかし、このイベントは中国側による統一戦線工作の一環であることは明らかだ。出席すれば、台湾軍の士気を落とす。米国をはじめとする外国の台湾軍への信頼への悪影響も出る。

「忠誠問題」というタブー

 蔡英文総統は「参加しないように」と呼びかけている。国民党の関係者は「国が退役軍人の行動の自由を制限すべきではない」と反論する。
 だがいずれも「忠誠問題」に触れようとしない。
 三月十三日、中国の福建省に近い、台湾が実効支配している離島、二胆島に駐屯する台湾軍の二十六歳の兵士が脱走し、泳いで約五キロの海を渡り、中国のアモイで中国側に確保された。
 兵士が中国側に投降したことは明らかだが、台湾当局関係者は「脱走」「投降」といった言葉を使わず、「行方不明の兵士」などの表現を使っていた。
 公式発言では機微な問題には触れないが、民進党関係者も私的な会話では「退役軍人の九割が中国側のスパイになりたいはずだ」と囁く。
 他方、国民党の関係者同士は「民進党は軍を信用していない。日経新聞の記事は軍を貶めるために民進党関係者が書かせた」と噂し合っている。
 迫りくる台湾危機で、肝心要の台湾軍が頼りになるのかどうか。日経新聞が無神経に触れたタブーが、台湾社会に不安と不信の念を広げている。


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