長宗我部「絶家」までの道程
少子化日本で変わる「血脈」の価値
2026年1月号
2025年秋、都内の病院で長宗我部友親氏がひっそりと亡くなった。享年83。実子がなく養子をとらず、後継に関する遺言もなかったため、戦国時代の四国の覇者、元親にさかのぼることができる長宗我部家の直系は途絶えた。
歴史に通じた読者は思うであろう。1600年の関ヶ原の戦いで西軍についた長宗我部家は改易され、1615年の大坂夏の陣で敗北した盛親らが処刑されたと。作家・司馬遼太郎は元親を主人公にした小説『夏草の賦』の末尾を「大坂の陣の結果、長曾我部家は、あとかたもなくなり、歴史から消えた」と結んでいる。
確かに本家筋は途絶えたが、一族が「あとかたもなく」全滅したわけではないし、「歴史から消えた」わけでもない。それは、長宗我部家に限らない。一族の遺伝子(DNA)はどこかで誰かに受け継がれ、長い歴史の時間軸の中で表舞台に登場することもあれば、目立たない形で濃密な歴史を紡いできたからだ。
元親の後継として期待された嫡男の信親は、1587年に豊臣秀吉による九州平定の日向方面軍を率いた豊臣秀長(秀吉の弟)の先遣隊として、戸次川(現在の大分市・大野川)で島津軍と激突して・・・
歴史に通じた読者は思うであろう。1600年の関ヶ原の戦いで西軍についた長宗我部家は改易され、1615年の大坂夏の陣で敗北した盛親らが処刑されたと。作家・司馬遼太郎は元親を主人公にした小説『夏草の賦』の末尾を「大坂の陣の結果、長曾我部家は、あとかたもなくなり、歴史から消えた」と結んでいる。
確かに本家筋は途絶えたが、一族が「あとかたもなく」全滅したわけではないし、「歴史から消えた」わけでもない。それは、長宗我部家に限らない。一族の遺伝子(DNA)はどこかで誰かに受け継がれ、長い歴史の時間軸の中で表舞台に登場することもあれば、目立たない形で濃密な歴史を紡いできたからだ。
元親の後継として期待された嫡男の信親は、1587年に豊臣秀吉による九州平定の日向方面軍を率いた豊臣秀長(秀吉の弟)の先遣隊として、戸次川(現在の大分市・大野川)で島津軍と激突して・・・









