NHK「性被害事件」の根深い病理
説明責任果たさぬ「井上樹彦会長」
2026年9月号公開
保身のための事なかれ主義は、どんな組織も腐敗させる。フジテレビや日本テレビで起きた人気タレントによる放送局社員などに対するハラスメント問題の誘因は、視聴率至上主義とは一線を画し得る公共放送にも根を張っていた。8月5日にNHKが唐突に発表した番組出演者による職員への性加害と関係部署の不適切な対応をめぐる事案が浮き彫りにしたのは、民放以上に深刻な隠蔽体質とトップの無責任さである。
NHKの発表によると、性加害が確認されたのは、番組出演者などとの懇親会の後だった。職員は体調不良に陥り、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の診断を受けて休職、1年数カ月後に他部署での復帰を希望したものの「休職後の復帰は元の職場へ」という前例や原則を盾に認められず、異動が実現した時には3年の歳月が経過していた。
昨年4月に職員から事案の訴えを受けた労働組合が申し入れを行ったことで、翌5月、NHKは元最高裁判事の池上政幸弁護士を座長とする「職員等の権利・利益の擁護等の在り方をめぐる調査検討委員会」(外部委員会)を設置、調査を始めた。
調査開始の時期は、当時のNHK会長だった稲葉延雄氏が定例記者会見で自身のがん罹患を公表し、局内の関心が「次期会長レースへと一気にシフト」(NHK関係者)していた頃だ。その当時、副会長として組織の実務全般を統括していたのが、現会長の井上樹彦氏だった。
労組からの申し入れで外部委員会が設けられるという重大事案を井上氏が認識していなかったはずはないが、局全体が稲葉氏の求心力低下と後継をめぐる権力闘争で揺れ動く中、このハラスメント事案は「外部委員会の調査待ちを理由に、実質的に棚上げされた」(元NHK職員)と見られている。
興味深いのは、稲葉氏が昨年5月の記者会見では「今のところ(NHKでは)フジテレビのような事案の通報はない」と断言しながら、その2カ月後には「放送業界では出演者、取材先と職員の適切な関係をきちんと維持することがない限り、この種の性加害を含めて問題はなくならないのではないか」とトーンを一変させていたことだ。変化の背景に、外部委員会が調査を進めていたことの影響があることは容易に想像がつく。
狡猾な組織防衛の意図
調査は今年1月に井上氏が会長に就いてからも継続され、NHK人事局の過度な原則主義、主治医や産業医の軽視、PTSDへの無理解、そして組織の構造的機能不全を容赦なく断罪した最終報告書が提出されたのは、5月28日のことだった。
不可解なのは、報告書を受けた井上執行部の「異常に甘い関係者への処分」(総務省幹部)で、「2次加害」とまで位置づけられた人事局の対応に関与した5人に対し、井上執行部は「人事担当役員から厳しく注意した」(小形修一・NHK理事)だけで、懲戒処分を避けている。
また、加害者である番組出演者には刑事、民事いずれの措置もとらず、「被害者との接触を避ける対応を申し入れ、真摯に対応すると約束していただいた」(山名啓雄・NHK副会長)というのでは、「罪と罰」のバランスを失している。
NHK側は「外部弁護士の見解として、組織としての不備はあるが個人の責任を問えるまでの事実認定は困難だった」と弁明するが、狡猾な組織防衛の意図が透ける。
被害職員から相談を受けた現場や人事局の担当者5人が、これほど深刻な事案を独断で処理し「勝手に握りつぶしたとは考えにくい」(全国紙放送担当記者)。担当者は直属の上司や人事責任者、管理職に状況を報告・相談していたと見るのが自然で、そのうえで上層部が「元の職場への復帰」という前例、原則に固執し、別の部署への異動を認めなかった疑いが出てくる。
関係者らに対して正式な懲戒処分を発動するには、根拠となる事実関係や意思決定プロセスを詳細に公表・記録せざるを得なくなる。そうなれば、「誰がいつ報告を受け、なぜ不作為を指示したのか」という指揮命令系統が洗い出され、2023年2月から副会長として実務を担当していた井上氏にも累が及ぶ可能性があった。
処分を「厳重注意」という内輪の措置に留めたのも、「個人の責任追及は困難」という弁護士の見解を口実に利用し、責任の追及を現場レベルで寸断するためだったと考えられる。
紙1枚のコメントだけ
今年5月末に最終報告書を受けてから8月の発表まで2カ月以上かかった点も、疑問だ。
この間、井上執行部は「被害者への丁寧な説明」という大義名分を掲げながら、実際には「関係者の処分をいかに軽く済ませるか」とか、「経営陣への火の粉をいかに払うか」といった算段に明け暮れていたのではないかとも指摘されている。
それゆえ、8月の記者会見でのNHK側の説明にはあいまいな点が目立ち、真相究明への真摯な姿勢は微塵も感じられなかった。
そもそも井上氏がこの記者会見の場にいなかったことが、疑念に拍車をかけている。
昨年1月に発覚したフジテレビの問題では当初、局側がカメラなしでの記者会見を行って猛批判を受けた。結局、最後は当時の港浩一社長がカメラの前に出て、異例の長時間の記者会見をしたことは記憶に新しい。昨年6月の日本テレビの問題でも、当初から福田博之社長が取材対応を行っている。
これに対して井上氏は、今回の事案で用紙1枚のコメントを出しただけで、その内容も「当時の対応」という言葉を繰り返し、過去の出来事だと印象づける操作が感じられた。
会長として「人権・人格を尊重する方針を打ち出してきた」と強調し、「今後も揺らぐことはない」と宣言したのも、当該職員の問題への対応から焦点をずらし、自身の経営姿勢を自画自賛したに過ぎない。
放送、エンターテインメント業界における人権環境は、旧ジャニーズ問題の発覚以降、徐々にではあるが改善されてきてはいる。ただ、今回のNHKのハラスメント事案や、その経緯にまつわる数々の疑問を見れば、放送局の現場や幹部の意識改革が十分に進んでいるとは思えないところがある。
株式を公開している民放に比べ、NHKには自浄能力が働きにくく、透明性が欠けているとの指摘もある。少なくとも井上氏がメディアの前に自発的に出て、この問題についての説明責任を徹底的に果たすところから始めなければ、NHKはもとより、放送業界全体の信頼回復は果たせない。
NHKの発表によると、性加害が確認されたのは、番組出演者などとの懇親会の後だった。職員は体調不良に陥り、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の診断を受けて休職、1年数カ月後に他部署での復帰を希望したものの「休職後の復帰は元の職場へ」という前例や原則を盾に認められず、異動が実現した時には3年の歳月が経過していた。
昨年4月に職員から事案の訴えを受けた労働組合が申し入れを行ったことで、翌5月、NHKは元最高裁判事の池上政幸弁護士を座長とする「職員等の権利・利益の擁護等の在り方をめぐる調査検討委員会」(外部委員会)を設置、調査を始めた。
調査開始の時期は、当時のNHK会長だった稲葉延雄氏が定例記者会見で自身のがん罹患を公表し、局内の関心が「次期会長レースへと一気にシフト」(NHK関係者)していた頃だ。その当時、副会長として組織の実務全般を統括していたのが、現会長の井上樹彦氏だった。
労組からの申し入れで外部委員会が設けられるという重大事案を井上氏が認識していなかったはずはないが、局全体が稲葉氏の求心力低下と後継をめぐる権力闘争で揺れ動く中、このハラスメント事案は「外部委員会の調査待ちを理由に、実質的に棚上げされた」(元NHK職員)と見られている。
興味深いのは、稲葉氏が昨年5月の記者会見では「今のところ(NHKでは)フジテレビのような事案の通報はない」と断言しながら、その2カ月後には「放送業界では出演者、取材先と職員の適切な関係をきちんと維持することがない限り、この種の性加害を含めて問題はなくならないのではないか」とトーンを一変させていたことだ。変化の背景に、外部委員会が調査を進めていたことの影響があることは容易に想像がつく。
狡猾な組織防衛の意図
調査は今年1月に井上氏が会長に就いてからも継続され、NHK人事局の過度な原則主義、主治医や産業医の軽視、PTSDへの無理解、そして組織の構造的機能不全を容赦なく断罪した最終報告書が提出されたのは、5月28日のことだった。
不可解なのは、報告書を受けた井上執行部の「異常に甘い関係者への処分」(総務省幹部)で、「2次加害」とまで位置づけられた人事局の対応に関与した5人に対し、井上執行部は「人事担当役員から厳しく注意した」(小形修一・NHK理事)だけで、懲戒処分を避けている。
また、加害者である番組出演者には刑事、民事いずれの措置もとらず、「被害者との接触を避ける対応を申し入れ、真摯に対応すると約束していただいた」(山名啓雄・NHK副会長)というのでは、「罪と罰」のバランスを失している。
NHK側は「外部弁護士の見解として、組織としての不備はあるが個人の責任を問えるまでの事実認定は困難だった」と弁明するが、狡猾な組織防衛の意図が透ける。
被害職員から相談を受けた現場や人事局の担当者5人が、これほど深刻な事案を独断で処理し「勝手に握りつぶしたとは考えにくい」(全国紙放送担当記者)。担当者は直属の上司や人事責任者、管理職に状況を報告・相談していたと見るのが自然で、そのうえで上層部が「元の職場への復帰」という前例、原則に固執し、別の部署への異動を認めなかった疑いが出てくる。
関係者らに対して正式な懲戒処分を発動するには、根拠となる事実関係や意思決定プロセスを詳細に公表・記録せざるを得なくなる。そうなれば、「誰がいつ報告を受け、なぜ不作為を指示したのか」という指揮命令系統が洗い出され、2023年2月から副会長として実務を担当していた井上氏にも累が及ぶ可能性があった。
処分を「厳重注意」という内輪の措置に留めたのも、「個人の責任追及は困難」という弁護士の見解を口実に利用し、責任の追及を現場レベルで寸断するためだったと考えられる。
紙1枚のコメントだけ
今年5月末に最終報告書を受けてから8月の発表まで2カ月以上かかった点も、疑問だ。
この間、井上執行部は「被害者への丁寧な説明」という大義名分を掲げながら、実際には「関係者の処分をいかに軽く済ませるか」とか、「経営陣への火の粉をいかに払うか」といった算段に明け暮れていたのではないかとも指摘されている。
それゆえ、8月の記者会見でのNHK側の説明にはあいまいな点が目立ち、真相究明への真摯な姿勢は微塵も感じられなかった。
そもそも井上氏がこの記者会見の場にいなかったことが、疑念に拍車をかけている。
昨年1月に発覚したフジテレビの問題では当初、局側がカメラなしでの記者会見を行って猛批判を受けた。結局、最後は当時の港浩一社長がカメラの前に出て、異例の長時間の記者会見をしたことは記憶に新しい。昨年6月の日本テレビの問題でも、当初から福田博之社長が取材対応を行っている。
これに対して井上氏は、今回の事案で用紙1枚のコメントを出しただけで、その内容も「当時の対応」という言葉を繰り返し、過去の出来事だと印象づける操作が感じられた。
会長として「人権・人格を尊重する方針を打ち出してきた」と強調し、「今後も揺らぐことはない」と宣言したのも、当該職員の問題への対応から焦点をずらし、自身の経営姿勢を自画自賛したに過ぎない。
放送、エンターテインメント業界における人権環境は、旧ジャニーズ問題の発覚以降、徐々にではあるが改善されてきてはいる。ただ、今回のNHKのハラスメント事案や、その経緯にまつわる数々の疑問を見れば、放送局の現場や幹部の意識改革が十分に進んでいるとは思えないところがある。
株式を公開している民放に比べ、NHKには自浄能力が働きにくく、透明性が欠けているとの指摘もある。少なくとも井上氏がメディアの前に自発的に出て、この問題についての説明責任を徹底的に果たすところから始めなければ、NHKはもとより、放送業界全体の信頼回復は果たせない。
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