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WTO「交渉空転」の舞台裏

もはや欧米の関心は「関税交渉」にあらず

2010年1月号公開

 舞台の照明が落ち、役者の動きが止まったときこそ、次に何が起きるのか、よく目を凝らさなければならない。意外な物語の展開が、舞台裏で静かに準備されている可能性が大きいからだ。
 演劇を鑑賞する話ではない。世界貿易機関(WTO)の多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)をめぐる貿易自由化の筋書きが、今まさに「どんでん返し」の局面を迎えようとしている。
「みじめな結果だと記者諸君は言うけれど、通商交渉はいつだって複雑で苦痛に満ちたものだ」
 昨年十二月二日、WTOのラミー事務局長は、こう語気を強めて報道陣にかみついた。ジュネーブで開いたWTO公式閣僚会議の閉幕後の記者会見の一コマである。
 だが、せっかくの閣僚会議が何の成果も生まずに終わったのは、誰の目にも明らかだった。交渉の難関である農業分野と工業品の関税削減について、各国代表が突っ込んだ議論を交わした形跡はない。
 リーマン・ショックから一年。世界経済は最悪期を脱したとはいえ、各国は国内の雇用維持に必死であり、内需の低迷は続きそう。ならば外需を伸ばすしかない。輸出を増やすには、貿易相手国の市場開放が重要だろう。
 だからこそ各国政府は自由貿易の進展を主張し、ドーハ・ラウンドを進展させると約束していたはずだった。
 

真の狙いは「非関税障壁」


 昨年七月にイタリアのラクイラで開催されたG8サミットでは、二〇一〇年内のラウンド妥結を宣言。九月のニューデリーでのWTO非公式閣僚会議でも、その意思を全会一致で確認し、高級事務レベル会合のスケジュールまで決めた。さらに同月のG20首脳会議でも、十一月のシンガポールでのアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議でも、「二〇一〇年内に妥結」という文言は念仏のように繰り返された。
 その上で、年末に満を持して開催したWTO公式閣僚会議。だが、冒頭で紹介したように「みじめな結果」に終わったのは紛れもない事実である。一〇年内の妥結どころか、ドーハ・ラウンド中止を囁く声すら出始めている。
 首脳レベルで高らかに自由貿易の強化を宣言していながら、その言葉を裏切って、閣僚レベル・高級事務レベルでの交渉が少しも進まないのはなぜなのか。中国やインドなど市場開放に消極的な新興国や途上国だけでなく、実は米国や欧州連合(EU)なども交渉の空転にほくそ笑んでいる節がある。
 昨年末に密かに来日した米オバマ政権の通商政策の関係者が、こう証言する。
「いまだにWTOが貿易交渉の主戦場だと考えている者など米欧にはいない。金融危機によって、戦い方がガラリと変わったのだ。WTOは、自由貿易に熱心だというアリバイづくりの場にすぎない」
 解説が必要だろう。この人物が指摘しているのは、米欧の通商政策には「本音」と「建前」があるという事実だ。表向きは世界規模での関税障壁の撤廃を主張し、ドーハ・ラウンドの決着を急ぐふりをしているが、実際の米欧の関心は全く別のところにあるらしい。
 その謎を解く一つの鍵は、昨年十月にEUと韓国が仮署名を終えた自由貿易協定(FTA)の中に隠れている。
 百五十以上の国や地域が参加するWTOの多国間交渉と異なり、FTAは国と国とが二国間で貿易の約束事を交わすのが原則である。お互いの関心事項を突き合わせて、譲るところは譲り、取るところは取る。双方の満足度のバランスが取れれば、交渉が成立するという格好だ。
 韓欧FTAは、五~七年以内にあらゆる鉱工業品の関税をゼロとすることを定めている。農水産物についても、コメは除外するものの、ほとんどの品目について関税撤廃を決めた。協定は今年半ばに発効する見通しである。
 韓国は自動車の現代・起亜グループや電機のサムスン電子、LG電子など、輸出競争力が強い企業を国内に数多く擁する。今回の合意内容を一見して、韓国側の方がFTAの恩恵を多く受けると予測する向きも多いだろう。
「関税」で譲った見返りにEUが獲得したものは何か。それは貿易を巡るさまざまな紛争処理の段取りの制定や、技術的な基準・認証など、いわゆる「非関税障壁」と呼ばれる分野でEUの主張を通すことだった。
 例えば自動車分野では、これまで韓国は、独自の安全規格や排ガス規制などを設けていた。ドイツのダイムラーやBMWが韓国市場で車を売ろうとすれば、新型車を開発するたびに、韓国当局が課す認証試験をパスしなければならない。それには時間がかかり、場合によっては当局による恣意的な認証の遅延もあるかもしれない。
 電気電子製品も同様だ。韓欧合意に基づくと、FTA締結後に欧州企業は韓国の基準・認証制度を気にせず、EU域内と同じ製品をそのまま韓国市場で売ることができるようになる。これがEUが獲得した交渉の「真の成果」である。
 

日本が孤立する恐れも


 基準・認証制度などのこうした「非関税障壁」は、WTOドーハ・ラウンドでは大きな争点にはなっていない。WTOでは鉱工業品と農産物の「関税撤廃」が叫ばれるばかり。EUの本当の関心が非関税分野にあるとすれば、表面上WTOで熱心に交渉する姿を見せつつ、二国間交渉で、静かに「実質的な利益」を狙うだろう。
 事実、EUは韓国に続き、東南アジア諸国連合(ASEAN)ともFTA締結を目指しているが、ここでもEUは基準・認証に照準を当てているようだ。世界経済の期待の星であるアジア市場に入り込むため、まず韓国にクサビを打ち込んだと見るべきだろう。
 EUだけではない。中国もWTOの表舞台で市場開放要求をのらりくらりとかわす一方、基準・認証を軸とするしたたかな戦略を打ち出している。消費者保護や安全確保、環境保全などを目的とする「CCC(中国強制製品認証)」制度をかざし、独自基準をASEAN地域に持ち込もうとしているのだ。
 米国も水面下でEUと環境技術やIT(情報技術)に関する規格の統一を模索している様子だ。欧米の主導で新たな産業の枠組みが決められれば、日本企業がいくら優れた技術を持っていても、宝の持ち腐れになってしまう。
 欧米や中国、韓国などにとって、進まないWTO交渉は、より重要な二国間交渉を密かに運ぶための「隠れ蓑」になっているとみるのが妥当なところだろう。日本は他国と調子を合わせて「WTO交渉が進まない」と嘆くばかりでは、決定的な遅れをとりかねない。
 戦略的にFTA網を広げる各国に対し、もたつくWTO交渉に縛られる日本。ふと気づけば、米欧と中国が世界で基準・認証の制度競争を激しく繰り広げ、日本だけが孤立している―。そんな事態に陥る恐れがある。通商国家の日本にとって、二〇一〇年は重大な岐路の年になりそうだ。


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