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連載

皇室の風24

「キャピー原田」の死
岩井克己

2010年8月号

 キャピー原田が亡くなった。
 一九二一年、日本人移民の両親のもと、米カリフォルニア州で生まれた日系二世・原田恒男。日米開戦後、米陸軍に志願して第六軍特殊部隊で情報収集、捕虜尋問、通訳などに従事。マッカーサー元帥の対日反攻作戦に従って太平洋諸島を転戦した。日本進駐後は元帥の腹心で連合国軍総司令部(GHQ)経済科学局長ウィリアム・マーカット少将の副官だった。
 若い頃から野球好きで、甲子園球場の接収解除や米大リーグ招致、日米野球の実現に尽力し、日米球団のスカウトを務めるなど野球を通じた日米親善に尽くした。
 筆者は九四年九月二十六日、赤坂プリンスホテルで原田と約一時間会って話を聞いたことがある。四五年九月二十七日の昭和天皇とマッカーサー元帥の第一回会見の場に原田が居たとの驚くべき情報を聞いたからだ。半信半疑だった。
 米大使館での天皇と元帥の第一回会見では、開襟の夏軍服でリラックスして立つ長身の元帥の傍らにモーニング姿で直立不動で立つ小柄な天皇の写真が新聞に掲載され、「敗者日本」を実感させて多くの日本人に衝撃を与えた。
 マッカーサーの回・・・