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連載

追想 バテレンの世紀 連載77

ウィリアム・アダムズの功績
渡辺 京二

2012年8月号

 カタリーナ使節が追い帰された一六一八年四月の時点で、日本とスペインとの関係は実質的に断絶した。メキシコとの通商を望んだ家康は、豊臣家を滅亡させて安堵したかのように、一六一六年六月に世を去っていた。その家康も全国禁教令を布いたとき、すでにメキシコ通商に熱意を失っていたはずである。布教に執着するカトリック国にあえて友好を求めずとも、布教抜きで商売だけしてくれるオランダ・イギリスがすでに登場していたのだ。

 英国は一六一三年に日本市場に参入した。司令官ジョン・セーリスが乗ったクローヴ号が平戸へ入ったのはその年の六月一一日である。ただし日付に関していえば、他の欧州諸国が一五八二年以来、教皇グレゴリオ一三世が定めたグレゴリオ暦を使用したのに、英国は一七五二年までユリウス暦を用いたので、この頃の英人の記録はすべて、他の欧州人の記録より一〇日遅れの日付になっていることに注意しておこう。

 英国では日本と通商しようとする意向は早くから存在した。一六世紀の後半、英国の航海者たちはいわゆる北東航路、ロシアの北を抜けてアジアへ至る航路を見出そうと必死だったが、一・・・