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連載

テイレシアスの食卓 vol.28

ある包丁屋の生きざま
河井 健司

2025年7月号

 包丁1本 さらしに巻いて 旅へ出るのも 板場の修業
 そう歌われた時代は、もはや遠い昔の話。人間がAIに教えを乞う世の中になり、料理の世界もまた、ずいぶんと様変わりした。歌謡曲の歌詞と異なり、遠い異国へ修業の旅に出てしまったが、さすがに包丁1本では心許なく、厳選した5本をトランクに詰めた。
 幸運にも渡仏後すぐにパリの高級店へ研修生として入店、ようやく現場に慣れてきたころ、職場はサッカーの話題で持ちきりとなった。2002年の日韓共催サッカーワールドカップ本大会が幕を開けたのだ。
 当時、調理場の同僚にヴァンソンという名前のスペイン人がいた。持ち場の仕事が忙しいと、丸い頬が赤くなる20代なかばの青年で、愛嬌のある性格の持ち主だ。しかし、困ったことに何回か、急な腹痛を理由に欠勤していた。いずれの日もスペイン代表の試合当日、明らかにずる休みである。これには言葉を失った。仮にも三つ星店の厨房、ここでしか得られない経験を積もうと料理人は皆、薄給と激務を覚悟して働いている。当然ながら士気は高い。そんな中、彼の存在は少々異質に見えた。もちろん店舗側も、急病を理由にされ・・・

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