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連載

テイレシアスの食卓 vol.31

「ノワール」と呼ばれて
河井 健司

2025年10月号

 パリ滞在中に一度だけ、夏のカサブランカを訪れたことがある。この古い港町の名前を聞けば、切なくも美しいラストシーンで知られる往年の名画と、主演のハンフリー・ボガート、そしてイングリッド・バーグマンの顔を思い浮かべる人も多いだろう。しかし実のところ、映画の聖地巡礼を目的に足を運んだわけではなく、むしろあまり興味のない旅行先だった。モロッコには失礼かもしれないが、フランスのビザを失効した外国人を、たやすく入国させてくれそうな国ならば、正直どこでもよかったのだ。そう、当時の筆者はフランスの不法滞在者だった。
 入国後3カ月間は、申請不要の観光ビザによって滞在は許される。しかし、研修と称して、無給で働いていた店舗から労働許可証取得の話をいただいたときには、すでに滞仏5カ月を過ぎていた。いわゆるオーバーステイ状態だ。当局に露見すれば、もちろん国外強制退去も有り得る。胸を張って働ける身分の証明となる、滞在労働許可証を申請するには、一旦、フランスを離れたのちに再入国して観光ビザの有効期限を回復させ、パスポート上の不備をなくす必要があった。労働ビザ取得のためなら是非もない。
 財布・・・

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